「インターネットの匿名性を無くせ」という弱いものイジメ

昨日テレビでビートたけし爆笑問題が司会を務める「秋の教育スペシャル・たけしの日本教育白書2006」なる教育番組なる放送がされていて、その中で気になる発言をしていたのでちょっと意見。


爆笑太田久米宏が、テレビのあり方について話していたときだと思うが、
「インターネットの匿名性は良くないよね。無くすべきだ」
という話が出た。
以前、爆笑太田は、自分の番組である「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」で、「インターネットを免許制にします」というマニフェストを掲げた回に、「インターネットで自分が悪く言われていることが嫌だ」という発言をしている。彼のインターネットの匿名の表現に強い不信感を抱いていることがわかる。
今回の発言でも、久米宏と同調するような形で、
「自分の顔を出して自分の責任で発言しろ。我々は、テレビで顔を出して発言するからいいんだ。」
という発言をしていた。自分の発言に常に責任を持たなければいけない立場の人には当然の考えなのかもしれない。
でも、私にはこの発言が「弱いものイジメ」に見えた。


匿名という衣を借りてネットで意見を発言している人の大半は、意見の責任の所在を自分だと名乗ると生きていけない人だと思う。匿名の隠れ蓑を利用して悪さをしようとしているのは一部の人達だ。世の中の大半の人は雇用される立場にあり、自分の意見を自由に発言しても、安全に生きていけることを補償されていない。会社や株主や社長や上司やお客様の機嫌を損ねると生きていけないのだ。
でも、自分の生活を向上させるために戦わなければいけない時もある。だが、今の生活も守らなければ生きていけない。なんとか身の安全を保ちつつ、訴えることはできれば一番良い。それが、インターネットの匿名性を利用した発言である。


これは、同番組に出演した石原慎太郎都知事が「自分の子供に、イジメに勝つために喧嘩を教えた」という発想に近いものがあると思う。生きていくためには、「イジメはいけない」という道徳よりも、「喧嘩で勝つ」という結果の方が必要なのだと。喧嘩という以上、そこには力で解決するという反道徳的な行為が、結果として正しい方法として横たわっている。道徳なんていう正論では生きていけない、生きていくには手段なんて選んでいる暇なんて無いということだろう。


インターネット上の発言から匿名性を奪うということは、弱者である者達が唯一勝つことができるかもしれない拳に手錠をかけられることではないか。
今、テレビの中に立てる人間は、テレビの外にいる人間よりもどう考えても圧倒的に強者だ。たとえ、1万人がネット上で批判をしたとしても、テレビの発言力には敵わない。
その強者が、弱者が唯一勝てるかもしれないネットの匿名性を封じるというのは、弱いものイジメじゃないすか?


逆に、テレビに出て「あの店は湯に300円も取る。」と発言し、結果として株価を下げるにまで至ったことがあったが、これはイジメじゃないんすか?
これだけの発言力がある人が、道徳的に行ってもいいことだったとは思えない。
良いことか悪いことかを考えるのは自由だが、だからといって、相手の家に火を放っていいという道理は成り立たない。
このことから、強者のイジメに対して責任を求めていないのに、弱者には責任を求めるのかというテレビの中に対する不信感も抱く。
また、ネットの匿名性排除を訴える人には、「匿名性じゃなくなったら何も言えない弱者の癖に」という見方をしているんじゃないかという気配も感じる。


それでは、どうすれば世の中よくなるのか。
それは、強者が弱者を守ってくれる世の中じゃないとダメなんじゃないか。というか、それは当然のことだけど。
インターネットの匿名性は強者によって守られる存在でいいんじゃないすかね?
くしくも、この番組が出すべき答えなんじゃないかと思ったが。本当に出たのだろうか?